次女が産まれてからしばらくたって、家族4人でいる姿を漠然と見ていると、なんとなくもう一か所ぐらいスペースがあるなあと思っていました。
いやいや、十分幸せだし、十分大変だし、十分慌ただしいし、高望みし過ぎることも程ほどにと思いながらも、(神様ありがとう)もし機会と天命があれば、「あちらから」やってくるだろうと考えていたのです。

  
 
春を過ぎた頃、我が家は3人目の赤ちゃんを迎えることになりました。
妊娠中期に入り、だいぶ落ち着き、胎動を感じると共に、心と身体のバランスもとれてきたのと隠しようもなくお腹も大きくなってきたので、少しずつお知らせをさせて頂いています。
 
クラスに来てくださる経産婦さんたちが、「そうかなーって思いながらも、お話してくれるのを待っていました」と言ってくださったことにまず感謝。
安定期と言われるのにはそれなりの意味があり、命の始まりはとても繊細で、絶対はないからこそ、妊婦の心は揺れ動きやすいものだからです。
 
 
3回目の妊娠は、年齢が上がってきていることに伴う身体の消耗と、ヨガの練習を継続してきたとはいえ、既に二つの命を世に生み出した事や授乳や蓄積した睡眠不足などの子育ての日々で摩耗した自己の存在を前に、私の生命力(オージャス)が枯渇している事を自覚するところから始まりました。
 
既にこの世に生を成している二人のわが子たちの事に心を砕きながら、その爆発的なエネルギーの前に、まだ静かな命の音を時々聞き逃し、存在を忘れてしまったり、失ってしまうんじゃないかという不安感は想像以上にしんどく、何度も夫にあたっていたように思う妊娠初期。
具体的に悪阻が辛いとか、肉体のしんどさとか、そういう事もあるけれど、“妊娠している事だけ”、“育児に集中していられない事”への罪悪感もあったのかもしれません。
 
ただ、自分が妊娠しているという事には身体と意識が慣れていて、より微細に身体の変化を感じたり比較したりして愉しみつつ、体力の足し算引き算を行いながら、程よい過ごし方が出来ているように思います。
 
 

「欲張らない」…命を生み出すことは、命への謙虚さを学ぶとき

 
妊娠すると、「おめでとう」という言葉を頂きます。いや、これは全然間違いではありません。
私も言っているし、言われても違和感はないのだけど、今回の妊娠が始まって、ぼんやりとした自信のないフワフワとした心の中、『妊娠って無事に母子ともに健康で生まれてこれるという結果がついてきて、初めて“良かったね、おめでとう”と言えることなのではないか』と思ったのでした。
 
産科医の荻田和秀医師も仰ってますが、「絶対を約束して生まれてくる命はない」という事の前に、妊産婦も家族も『妊娠』という奇跡の事象を謙虚に思う事が出来ます。
 
 
絶対に理想的な妊娠生活を送れるという確約は誰にもできないし、それぞれの事情があっての生活リズムで過ごしていらっしゃると思いますが、もし何かに拘っているとしたら、それは本当に欠かすことが出来ない事で、自分の欲望は含まれていないのかなど、必ず親となった人が突きつけられるていく、自分自身のエゴとの向き合いはこの時点から始まっているものなんですよね。
 
 
満月(新月)に生まれてきたら、特別にスピリチュアルな子?
 
全然関係ありません。助産師さん達も、お産の数の予測計算はしても、それ以上に重きは置かないでしょう。お産を経験し、赤ちゃんの無事の誕生を心から喜んだ人は、お産の仕方や産まれ方などの産む側の自己実現願望などは実に他愛もない事のように思えるようにも思います。
(満月に生まれてきた次女も、普通の日に生まれてきた長女も何も変わらない!)
 
 
妊娠期間は、“絶対”が訪れる奇跡を祈りながら過ごす時間。
ほやほやとした可愛らしさは代えがたい喜びをくれます。赤ちゃん時代は宝石のようにキラキラと特別な瞬間。
赤ちゃんの誕生はゴールではなく、まさにその子の人生が始まったという事。お母さんの育児が始まったという事。
 
 
妊娠は始まる前の、“始まり”。
 
忙しい、大変だ、余裕がない、口癖のように言ってしまうからこそあえて振り返りたい、そんな妊娠期です。